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今年も良い竹を取って釣竿を何本か作ろうと考えていた物の、一度雪が降ってからでも良いかと思っていた。ところがその雪が一度12月9日に一度大雪が降ってからと云うもの、雪は融けずそのまま根雪の状態となってしまった。庄内の竹竿は、根を非常に大切にすることから、根付の竹を掘り出すには困難な状況となってしまった。その為、ウラ(穂先)に使う為の竹を何本か取るだけで竹取のシーズンは終わってしまった。
日本の釣の原点は、なんと云っても竹竿を使った釣であると云う事に尽きると考えている。我が国では、古来より大小様々な何種類もの竹が日本各地に自生していたから、西洋のそれが木で作られていたのとは異なり、その豊富な竹の中から竿に適するものだけを選び、竿として使われて来た。お隣の中国でも竿と云う字に竹冠が使われている事からして、竹を釣竿として使用して居たとは云うまでもない。世界的に見て竿=竹と云う発想は竹が容易に手に入る、東アジアの熱帯から温帯にしか存在していない。残念ながら最近ではその竹竿の感触を知らぬ釣り人が急増している。その最大の理由が、竹竿が高額であることと手入れが大変であることがひとつのネックとなっている。また竿師の減少で昔のような普及価格の釣竿が、まったくと云って良いほど手に入り難いと云った事実も、大きく影響しているのではないだろうかと思われる?
現在はカーボン竿全盛の時代で格安の低価格商品から、高額な商品まで魚の種類、釣り方、人の好みに応じた種々様々な竿が簡単に選び買える時代である。しかし、カーボン竿がいくら発達したとは云え、飽くまでも人工的に作ったものであるから、竹の感触を凌駕したものは中々見当たる訳がない。元々竿は一本の竹から出発した物であるが、化学繊維で作られた竿は竹本来の特性から外れたところで進化している気がしている。竹には竹本来の持ち味がある。手作りの竿は一品物であるから、似た物はあっても同じ物は絶対に無い。無いから貴重でもある。全国的に見てその貴重な竹竿が、消えつつある。作る人が減少しているのだ。日本独特の製法で作られた竹竿が、絶えてしまうのは時間の問題であるのはこれ又非常に残念な事である。
釣を趣味としている者を第三者の立場から見れば、「自己満足の世界」に浸っている馬鹿な人としか映らない。がしかし、一方で釣をする当事者は、決してそうは思っていない事実がある。釣をする人は「もっともっと釣りたい、もっと釣るには今よりもっともっと良い道具が欲しい。」と常々思っている。そのもっと釣るための向上心と欲で、常に頭の中が一杯なのが釣り人(通称釣馬鹿=釣キチ)である。この事が釣の上達を早めるきっかけとなっているのだから、これ又始末が悪い。釣に関してはこれで良いと思う事がないであるから、釣り人に生長がある。これで良いとか、極めたと思った瞬間から、その釣り人の成長は終わりとなる。
ところで竹竿の感触は、竹竿を使った事のある経験者でなければその良さは分からない。実際に竹竿を使って見ると、そこは人工的に作られたものとの違いで、かすかな魚信が手に取るように分かる。分かると云うよりも、感触から云えば見えて来ると云う表現がぴったりであるかも知れない。竹竿に慣れて来ると魚が近くに寄って来たとか、今魚が餌を口にして今離した、又餌に食いついたと云う事等が手に取るように分かって来るから不思議である。又釣れた時の竿の曲がり方が、人工的に作られたカーボンでは味わえぬもののひとつである。しかし良い点ばかりではない。カーボン竿より竿が重いとか、竿の手入れが必要であることがある。竿は人工物ではないから、生き物であると云う事を忘れてはならない。だからそれ相応の手入れが必要となる。竹は自然にあって呼吸しているものであるから、その命を少しでも延長する為の手入れが必ず必要なのだ。事に庄内竿ではその手入れの仕方ひとつで100年もの実用に耐える。庄内の延竿では基本的に一本の竹から作られ、一切の人工的な手を加えていなかつたからこそ、竿としての寿命が異常に長いと云う特徴がある。もうひとつ庄内竿には竹を決して焦がしてはならないと云う伝統がある。それは竹の繊維を殺してはならないと云う先人の教えなのだ。竹の皮をそいで漆を塗ったりしたものは、竿としての寿命は30〜50年しか持ち堪える事が出来ない。また継竿よりも延竿の寿命が長いと云う事は一本の竹を切ったり、竹の皮を削いだりしてはならないと云う事を教えてくれているのである。残念な事に車社会の今日、携帯に便利な継竿はなくてはならないものとなってしまった。其処に竹竿の限界が見えて来る。幾ら高価なものでも竹竿が展示場に飾られた美術品となってしまっては、一部の愛好家を除いて実釣派の釣り人にとっては何の価値も持たないものになってしまう。
そんな竹の竿が最近になって若者にも見直されつつあると云う事はうれしい限りである。竹の良さが見直されて来たと云う事は、竹竿で釣を覚え育って来た者とってはひとつの喜びを感じられる事でもある。カーボン竿でも竹の調子に近いものが開発されつつあるとも聞いている。数を釣る竿よりも一匹、一枚の魚を楽しんで釣る釣が見直されつつあると云う事は、これからの釣にとって非常に良いことでもある。数を釣って、早急に魚の固体数を減らして行く釣りよりも、少しでも良いから楽しんで釣る釣りに切り替えた方が、間違いなく後世の釣り人にも釣を楽しんでもらえる確率が圧倒的に多いのは明らかだ。
常々竹竿がもっともっと身近なところにあって誰でもが作れる状態、もしくは安価に買える状態にあれば良いと思う。竿師の方には申し訳ないが、もっともっと安価に買える竹竿の普及品も作って欲しいと思っている。数が出回り竿もある程度コンスタントに売れるようになれば、竿師たちもそれなりの安定した生活が出来るようになると思うのであるが・・・どうだろう。
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